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2017.2.16 私(小林芳夫)のプロフィールについて下記に順次お伝えします:

一、写真をやることの喜びとか動機づけ

            まずは自分のこどもの時から写真を見たりカメラに対する興味はあった。具体的に覚えているのは、中学   3年の関東本面への修学旅行の時に、鎌倉の宿とか東京の日劇見学の折に誰かのカメラを持参して友達とか   スナップをした覚えがあり、カメラは父が持っていたものか同級生の中山正昭君のものを借りたかのいずれかです。もちろん今から60年程前のことで、フィルムはモノクロでした。その後、高校では特に写真のことは記憶になくきっと何もやらなかったのでしょう。東京の大学へ入ってから、外国語をドイツ語で入った友達やサークルが出来、その連中15人ほどか夏の登山に信州の妙高山に合宿して登ったことがあり、その際にカメラを持参して私が主に皆の写真を撮ったことが再開といえばそうです。大学3年で休学してそれ以前から文通していた南ドイツの小さな町に約9ケ月間遊学(働きながら暮らす)する機会を持ちました、そのころはよく知られていない外国の風物に接することは珍しいので、カメラで積極的に写すようになりました。1964年のことで、世の中はようやく写真もカラーの時代が始まっていました。    

            23歳で大学を卒業し36歳になっていましたが、親父が7年前に学校教師を退職し、その後創設し開園した保育園の、別の第2保育園を私が地元地域の要望で新たに1980年4月に開設するまでは、ずうっと2~3の会社勤めを続けました。保母と給食調理員で10名内外の職員の職場で、男性は私一人の言わば孤独な職場となりました。自分は元来あまり社交性がない方でgoing my wayの性格でした。それで,もともと好きだった自然の中へ度々出かけたり、カメラで写真を撮ったりする楽しみを見出したというのが動機です。これがいわゆる一人でも追及できる趣味とか道楽の始まりです。それが今から37年前です。そのころ長野県ではすでに国鉄支社とか市町村がいくつか観光写真コンテストを決まって開催しており、私もいつしか自分で撮った写真を写真屋でプリントを頼んでは応募するようになり、自然の成り行きというか年ごとにあちこちのコンテストに入賞入選するようになりました。しかし、自分の写真の技術又は腕でしょうか、一人ではそう上達するものではなく、さらなる上を目指すにはどうすべきか悩んでいる時に、愛読していた朝日新聞紙上で、とある写真クラブ会員募集の囲み記事を見ました。そこで初めて「全日本写真連盟長野支部」という長野市の朝日新聞の長野支局内にあるそのクラブに連絡し、支部の月例会の様子を見学し、さっそく入会しました。1983年4月のことです。    

             このアマチュアカメラマンの全国組織である「全日本写真連盟」、The All-Japan Association of Photographic Societiesという日本で最古(1926年創設)そして北は北海道から南は沖縄まで全国で約2万名の会員を擁する大きな組織団体の一員に私が自ら加入したことが、その後の私の長い写真人生の中で大きなよい影響を及ぼしたことは事実であり、我が人生を彩り豊かにし、かつほぼ満足できるものでもあります。この「全日本写真連盟」のことはホームページにも大きく載っており、組織や年間活動等詳しく分かります。この連盟は過去何十年と毎年周知の3大著名な写真コンテストを一般公開で行っており、「日本の自然」、「全日本写真展」、それに「国際写真サロン」という写真コンテストで特に3番目のものは日本国内のみならず世界のカメラマンに向け作品の応募を呼び掛けており、毎年入賞するのは3割ほどが外国人となっています。これらの写真コンテストの応募数は各々約1万点前後には達するほどの大きな規模のものです。

            私どもの「全日本写真連盟」は国内では略称で「全日写連」とか「日写連」と呼ばれています。私がこの連盟の全国にある4つの地域本部の一つである関東本部(東日本の19都道府県を管轄)の中の長野支部というアマチュア写真クラブに1983年に入会して以来、20数名ほどの会員と活動している中で、6年後の1989   年には支部長になり、さらに1997年には長野県内各地にある10支部、合計約250名会員の県本部委員長の役に就きました。それと同時に上部組織である関東本部委員の1名と任命され、以降現在まで20年にわたり全日本写真連盟の役員の一人としてこの団体の活動や発展に微力ながら寄与しているものです。


二、経験(写真活動)や受けた賞について

   私の写真活動と言えば、全国規模の有名な写真コンテスト、例えばフィルムメーカーやカメラメーカー主催のもの、または上述した私共全日写連主催の3大著名写真コンテスト等の最高レベルのコンテストに応募したこともなければ、それらに入賞入選も残念ながらありません。主に地方の、いわばローカルの各種写真コンテストに応募することは容易であり、また入賞入選は多数あってそれらの記録もあります。全国規模の写真コンテストに何故応募しないのかは、自分の実力からしてとても入賞入選のレベルに自信の無いことと   応募作品作りの物心両面のエネルギーを使う気にあまりなれないことでした。

            私ども写真団体のモットーが「写真文化の発展と会員の親睦を図り、写真を通じて社会に貢献する」という目的目標を掲げており、私自身その趣旨に大いに賛同し、長らくそうした活動を続けてきました。写真クラブの一員となってから、仲間の会員同士の交わりや活動、切磋琢磨より、むしろ自分の利益をより求めて各種写真コンテストに応募しまくるという利己主義な会員もよく見受けました。そうした会員は同じ写真クラブの中では他の会員からの信頼は得られなく、かつ会務を任せる役などに選ばれることはありません。また下記に述べるように、私は連盟の綱領にあるように、写真を通じて社会に貢献するという意味合いにも沿うので、各種写真コンテストに入賞し名誉心を求めるとする会員とは一線を画して、むしろ自分の住む地元の人々に対して、自分の目と感覚で撮りだめた自然風景や風物の写真を作品集として編集して出版し、多くの人々に見て貰うという方向で写真を撮った動機の気がいたします。要するに、私は自分のことはほどほどに、そして利他の精神でやってきたからこそ県の代表を一時9年間(1997~2005年)務めた訳で、もっと長く務めることを期待されましたが、人事は代わった方がよいので次期のリーダーを選出してもらいました。こうした全日写連の東日本の中での同じ連盟の写真仲間が大勢できて、それら県内外の仲間との交流を今でも続けており、何かと生きる上での励みや喜びとなっているのは嬉しいことです。

            関東本部委員として付記することは、2006~2015年の9年間にわたり連盟の本部事務局からの委嘱を受けて、茨城県や北海道にある同じ連盟の他の支部(写真クラブのこと)の会員の月例会写真作品の宅急便で毎月送付されてくる選評や作品添削指導を行いました。アマチュア写真クラブのことですから、もちろんこうした連盟の委員の仕事はボランティア活動です。そんな奉仕の報いとして私の忘れられないことがあります。それは、2006年12月5日に東京の帝国ホテルの大広間で行われた「全日本写真連盟創設80周年記念祝賀会」に、全国で合計80名の連盟に貢献した功労者の一名として選ばれ、そのだ祝賀会に招待されて参加できた思い出です。関東本部ならず総本部や他の3地域本部に属する役職員等も含めた人数かと思われますが、ちょうど私も長野県本部委員長を前年まで務めていたので、各都道府県代表の一員として推挙されたのでしょう。公私共にめったにない嬉しいイベントでした。   ・トップ3賞受賞の記録を伝えてくれということですが、ごく若干に過ぎません:   

一、2nd Prize Railway photo contest February 2015、Photography Journal Asahicamera  二、1st Prize 甲信越写真サロン、2003年4月、全日本写真連盟甲信越ブロック3県本部主催のフォトコンテスト(当時の作品はフィルム撮影作品)   

・My private photo exhibition held in Feb.1988、 Jan.1989 and Oct.1989、いずれも千曲市内で開催。

・Private photobooks published 4 times:

「ふるさと詩情」Mar.27.1990、有限会社屋代西沢書店発行

「ふるさと逍遥」 Apr.26.1994、同上

「ふるさと彩時記」May 10. 1996、同上

「ふるさとこの季あの季」Aug.10.2000 同上                                                                                      

以上。

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